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ビートルズ・ミニ・データ
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■ビートルズ・ミニ・データ■■■■■

■ビートルズの関係はツービートに近い

ビートルズのメンバーの関係を考えると、個人的には、往年のツービートを想起します。

皮肉屋で口数も多いジョンがツッコミ、口数は少ないけど皮肉屋のジョージがツッコミ、器用で明るいポールはボケもツッコミも出来るが、ビートルズ内ではツッコミ、メンバー内の潤滑油といわれたリンゴがボケです。

この構図は最近主流のダウンタウンのような天才的ボケ(松本人志さん)と職人的ツッコミ(浜田雅功氏さん)のコンビではなく、ツービートに近いマシンガントークのツッコミ(ビートたけしさん)に受身のボケ(ビートきよしさん)のノリの方が近い気がします。

もっともツッコミ(ジョンとポール)が衝突しあい、後に解散につながったのは皮肉な気がしますが・・・



■ビートルズの名前

ビートルズは、カブトムシならば、beetlesとなるはずですね。

音楽のbeat(ビート)にかけて、beatlesとなったわけです。

こうなったのは、ロック・バンド「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(こおろぎ)にあやかり、クリケッツがこおろぎという昆虫とイギリスの球技であるクリケットを掛け合わせたようなしゃれた名前になるからです。

そういえば、日本でもGLAYの例などがありますね。
(GLAYは本来ならGREY:灰色)となるはずです。

あえて、beatleのようにGLAYとしたわけです。



■ビートルズのアメリカ進出

ビートルズがアメリカを訪れたのが、1964年2月7日で、この模様は、全米に中継され、アメリカはビートルズのとりこになりました。

同年2月9日に全米で有名な大人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演したビートルズは、ここで視聴率72パーセントの驚異の数字をだします。

ビートルズが演奏していた10分間には、あの犯罪都市といわれるニューヨークで青少年の犯罪が一件も発生しなかったというエピソードも生まれます。

いかにアメリカがビートルズに注目したかですね。

この日こそが、アメリカ中の人々が「動くビートルズ」を目撃し体験した初めての「衝撃」の日となりました。

ビートルズ出演の「エド・サリヴァン・ショー」は、同年2月9日、16日、23日の計3回で、23日の放送分は、2月9日に同時に収録されたものです。



■ビートルズのアメリカ・ビルボードのシングルチャート1位〜5位独占

ビートルズの世界的成功、快進撃はアメリカでの成功がきっかけかもしれません。

アメリカは、今でもそうですが、世界一の巨大な音楽産業であり、そこでの成功がビートルズを世界的バンドとしました。

1964年4月4日付のビルボードシングルチャートにおいて、1位から5位までを独占する快挙をなしとげました。

そのときのランキングは、1位「キャント・バイ・ミー・ラヴ」、2位「ツイスト・アンド・シャウト」、3位「シー・ラヴズ・ユー」、4位「抱きしめたい」、5位「プリーズ・プリーズ・ミー」で、ビルボードシングルチャートの100位以内にビートルズの曲が12曲もランクインしました。

ちなみにビートルズは、前の週の3月28日にオーストラリアのチャートでも上位6位までをビートルズが独占する快挙を挙げています。



■ビートルズの来日

ビートルズが日本へ来た。

ビートズが来日、滞在したのは、1966年の6月29日から7月3日まで・・・。

公演は、6月30日1回、7月1日2回、7月2日の2回の計5回あったといわれます。

ビートルズの公演の司会はE・H・エリック、前座はザ・ドリフターズ、内田裕也、尾藤イサオなどです。(敬称略)

この公演を見た人物は、三島由紀夫、石原裕次郎、宇崎竜童、かまやつひろし、堺正章、沢田研二、平尾昌章、湯川れい子などなど(その他にも著名人多数)(敬称略)

公演の警備が大変だったといわれます。

ある種「ビートルズ台風」といってよい旋風だったかもしれません。



■エリック・クラプトンの「泣きのギター」

ジョージ・ハリスンが名曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を作った時、「泣きのギター」を表現したいが、上手くいかず、親交のあったエリック・クラプトンにプレーを依頼、さすが「スロー・ハンド」、「ギターの神様」、「3大ギタリスト」といわれるクラプトン、一発で「泣きのギター」を表現して、ジョージは感心したといわれます。

さすがは、クラプトンを思わせるエピソードですね。



■ビートルズの最大のコンサート

現在ではスタジアム・コンサートなどの大規模なコンサートも機器の進歩などで可能で、当たり前になっていま。

ビートルズが1960年代中期に行ったコンサートは当時としては記録的でした。

ビートルズの初めてのスタジアム・ショーは、1964年のオーストアリアのメルボルンでのものといわれ、収容し切れなかった人を含めると、200,000人が集まったといわれます。

ビートルズの最大のコンサートは、記録の上では、1965年のアメリカのニューヨークでの55,600人の観客を集めたといわれます。
ちなみにこのコンサートでの警備員の人数は、24,000人といわれています。



■ビートルズのシングル

ビートルズは、イギリスで22枚のシングルを出しています。

最初のデビュー・シングルが「ラヴ・ミー・ドゥ」、最後のラスト・シングルが「レット・イット・ビー」です。

「ラヴ・ミー・ドゥ」と「レット・イット・ビー」を比較すると、これが同じバンドが発売したとは思えない音楽性の成長を感じることが出来ます。

これだけ、変化、成長したバンドは、ないのではないでしょうか。

この2枚のシングルは、ポールマッカートニーの作品といわれています。
(名義は「レット・イット・ビー」が「レノン=マッカートニー」で、デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録の「ラヴ・ミー・ドゥ」は、「マッカートニー=レノン」となっている、アルバムでは、デビュー・アルバムのみ「マッカートニー=レノン」となっていますが、理由は不明)



■ビートルズの人気と実験性の両立

ビートルズが現在も評価され、人気を保っているのは、その先進性、実験への挑戦をしていたからかもしれません。

ビートルズは、当時最高の人気バンドであったにもかかわらず、あくなき実験への挑戦、新しい音楽への追求を続けました。

例えばインド音楽への接近、メンバーではジョージが特にインド音楽を取り入れることに熱心だったとされます。

テクノ、ループを使った『リボルバー』収録の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」は、現在でも新しさがあり、斬新性の輝きを失っていないといえますし、実験性の極地としてアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・バンド』を発表するに至りました。

後のハードロック、さらにはへビィ・メタルをも思わせる『ザ・ビートルズ』収録の「ヘルター・スケルター」、レゲエのリズムを取り入れた「オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ」、シンセサイザーをいち早く導入したアルバム『アビイ・ロード』、後のロック・シンフォニーやプログレ・ロックを思わせるアルバム『アビイ・ロード』の後半のメドレーなどビートルズは解散まで先進性を失いませんでした(アルバム『アビイ・ロード』が事実上のビートルズのラスト・アルバムといわれます)



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