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別所毅彦
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■別所毅彦■野球選手■310勝投手

右投右打

身長161センチ、体重85キロ

1922年10月1日−1999年6月24日


別所武彦(べっしょ・たけひこ)は、通算310勝した大投手・・・
旧名及び本名は、別所昭(べっしょ・あきら)で、愛称は「べーやん」「鬼軍曹」・・・
巨人時代の残した221勝は、球団最多勝記録・・・



旧制滝川中時代の別所は、1941年の第18回全国選抜中等学校野球大会に、後に巨人の強打者となる青田昇とともに優勝候補で甲子園に出場し、準々決勝で試合中のアクシデントで左肘を骨折してしまい、激痛に耐え延長十二回途中まで投げたが、痛みの限界に達し、降板し、チームも延長十四回にサヨナラ負け・・・
しかし、別所の奮闘ぶりは、翌日の新聞に「泣くな別所、センバツの花だ」の見出し・・・
卒業後は、旧制大坂専門学校を経て、日本大に進学・・・


日本大学在学中の1942年秋に、本人が巨人と契約するが、親族が南海と契約し、二重契約となるが、親族の契約が優先され、南海へ入団・・・
南海でエースとして活躍・・・伝説の大投手・沢村栄治とも交流の機会があり、別所は沢村に速球を投げるためにはの質問をし、沢村から「走るんや、別所君」のアドバスをもらっています・・・
当時は、投げ込みが投手の練習の主流でしたが、沢村は走り込みを推奨しています・・・
当時としては先進の考えだったのでは・・・
ちなみに、後に金田正一は、走り込み中心の練習で400勝投手に・・・
1943年5月26日にノーヒットノーラン達成・・・
別所の南海での活躍はすごく、1947年は30勝、191奪三振で最多勝と奪三振王・・・
47完投のシーズンのプロ野球記録も・・・
沢村賞の初代受賞者にもなる・・・
翌年の1948年も26勝を挙げ、南海優勝に貢献するが、同年オフに「別所引き抜き事件」発生・・・
これは前述の入団の経緯の因縁に遠因があるといわれる・・・
この事件で別所は2か月の出場停止となるが、巨人へ移籍後も別所はエースとして活躍・・・
1952年6月15日には、九回二死まで完全に抑えたが、ブルペン捕手だった神崎安隆に内野安打を浴び完全試合を逃す・・・
この年は日本シリーズMVP・・・
1955年は23勝で沢村賞、日本シリーズで3勝をし、二度目の日本シリーズMVP・・・
1960年4月29日に、通算302勝で、プロ野球通算最多勝投手記録を更新・・・
(当時は、スタルヒンの301勝が記録だったが、後に記録の見直しでスタルヒンの通算勝利は303勝に改められた)
通算勝利を310勝まで伸ばす・・・
1961年から兼任コーチとなったが、試合には出場せず、「鬼軍曹」的働きをし、同年の日本一を花道に現役引退・・・


別所は、引退当時に通算310勝など多くの投手の通算最多記録を保持したが、巨人時代の球団最多勝以外は400勝投手・金田正一に更新される・・・
身体が頑丈で、引退まで肩、ひじなどに故障がなかった・・・
打撃もよく、登板日以外は野手として出場したことも・・・
プロ生活でバントのサインを出されたことがなく、通算500安打を記録・・・
投手としての本塁打31本(他に野手で4本)は歴代3位・・・
(1955年6月9日の杉下茂からのサヨナラ本塁打も含まれる)
1950年は、161打席に立って、打率3割4分4厘、4本塁打、28打点・・・


引退後は、コーチ、解説者、監督などを務めた・・・
監督解任後は、解説者を務めた・・・
1979年に野球殿堂入り(日本)・・・
1992年から巨人OB会会長・・・

1996年6月24日死去、76歳没・・・


投手成績・・・
18年、防御率2.18、310勝178敗
MVP2回、最優秀防御率1回、最高勝率1回、最多勝3回、奪三振王1回(当時はタイトルでない)
日本シリーズMVP2回
ノーヒットノーラン1回


剛球唸る!栄光と熱投の球譜
310勝を挙げた別所毅彦の栄光の軌跡



打撃成績・・・
18年、打率2割4分5厘、35本塁打、248打点


監督成績・・・
3年、143勝190敗9分、勝率4割2分9厘





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