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サチェル・ペイジ
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■スポーツの超人<海外編>INDEX■■■■■

J・I・ステンマルク マイケル・ジョーダン サチェル・ペイジ タイ・カッブ サイ・ヤング
テッド・ウィリアムズ ベーブ・ルース R・ホーンスビー R・ヘンダーソン
その他−参照2

■サチェル・ペイジ■野球選手■史上最高の投手

右投右打

1906年7月7日−1982年6月8日

野球の史上最高の投手は誰かと問われたら、私は生涯のほとんどを二グロリーグなどで活躍したサチェル・ペイジを挙げます。


2000勝投手はこうして誕生した;サチェル・ペイジとその時代
二グロリーグ時代に通算2000勝を挙げたとされるサチェル・ペイジ
大リーグに入ったのは、黒人に大リーグへの門戸が開いた高齢になってからで、もしペイジの全盛期に大リーグ入りしたら驚異の成績を挙げたかもしれません
(ちなみに、ニグロリーグのレベルは大リーグと同等かそれ以上だったとされます)
速球投手で「火の玉投手」といわれたボブ・フェラーが「サチェル(・ペイジ)の投げるボールがファスト・ボール(速球)なら、私の投げるボールはチェンジ・アップ(速球より球速の遅い変化球)だよ」と発言したといわれます

全盛期を二グロリーグで活躍し、大リーグ入りは選手として高齢になってからでした。
(全盛期当時は、黒人などは大リーグに門戸が開かれていませんでした)

二グロリーグにおけるカリスマ性は、大リーグ(メジャーリーグ)のベーブ・ルースと並び称されます。


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■履歴
▼生い立ち
サチェル・ペイジこと本名・リロイ・ロバート・ペイジ(以下はサチェル・ペイジ)は1906年7月7日に生まれたといわれます。

サチェルのニックネームの由来は、諸説ありますが、少年時代に長い棒に荷物をかけて運ぶ仕事をしていたので、友人から「歩くサチェル・ツリー(ショルダー・バッグをぶら下げておくハンガー)」といわれていたという説が最も有力で、それ以来この名前で通したといわれています。

1918年の12歳の時、万引き癖で実業学校に入れられたペイジが、エドワード・バード指導の元でピッチングスキルを身につけたといわれています。

1923年に兄の所属していたセミプロチーム・モービル・タイガースに入団します。

このチームには、後に二グロリーグのスターになったテッド・ラドクリフ、ボビー・ロビンソンもいました。

▼二グロリーグ時代
二グロリーグ時代のペイジは、約2500試合に登板し、2000勝以上を挙げ、うち完封勝利は350以上、ノーヒットノーランが55試合というにわかに信じがたい驚異的数字を挙げたといわれています。

二グロリーグのレベルも大リーグとの交流戦(大リーグと互角あるいは互角以上にわたりあうことも・・・)などを見ると、高かったようですね。

一説には二グロリーグにおけるサチェル・ペイジの驚異的数字は、中南米のチームとの交流戦なども含めた数字ではないかともいわれていますが、それにしても「とんでもない」数字ですね。

また、抜群のコントロールを誇ったといわれます。

「火の玉投手」といわれた時速160キロ以上の速球を投げていたといわれる速球王・ボブ・フェラー(参照)が「サチェル(・ペイジ)の投げるボールがファスト・ボール(速球)なら、私の投げるボールはチェンジ・アップだよ」と発言したといわれます。
(注)チェンジアップは速球より遅い球の一種で変化球の一種ともされ、減速して沈む軌道となるとされ、速球より球速が遅く、スピードに緩急をつける場合(タイミングなどをずらすなど・・・)に有効とされる
沈む変化の大きさは人や握り方などの条件によってまちまち



フェラーの速球を見た関係者が時速170キロを超えていたのでは・・・と証言していますから、ペイジは極めて速い珠を投げていたと思われます。

ペイジとノーラン・ライアン(大リーグの奪三振王)(参照)の両者の球を受けた捕手は「(ペイジの速球は)時速179キロ位」とコメントしています。

ペイジの速球の凄さには以下の逸話もあります。

・ある試合で、ペイジが物凄いスピードのある速球を投げていました
すると捕手が「チェンジアップが必要な時はサインを出すから勝手に投げないでくれよ」と叫んだとか

・大リーグ相手の試合で物凄いスピードの速球を投げていたペイジ
すると捕手が「手を抜くな、チェンジアップでなくストレートを投げろ」といったとか


記録が不確かで「伝説」の域を出ませんが、いくかの「伝説」も生まれています。


・全打者奪三振になりそうな試合で、最後の打者が振り逃げしたため、28奪三振を記録

・9回裏にわざと走者をためて無死満塁とし、しかも野手をベンチに引き上げさせ、打者と勝負した

・「今から9人連続奪三振をする」と宣言して達成

・野手全員をマウンドの周りに座らせ、投げる


などをしたといわれます。

極めて高いショーマンシップだといえます。

1930年には大リーグ選抜との交流戦で22奪三振完封勝利を記録しています。

残念ながら、「野球の神様」ベーブ・ルースとの対決の機会はありませんでしたが、ベンチよりペイジの投球を見て、ベーブ・ルースの顔が青ざめていたとの証言がいくつかあります。

記録がはっきりしている1934年は105試合で104勝を挙げています


▼大リーグ時代
1947年にジャッキー・ロビンソン(参照)がロサンゼルス・ドジャースと契約し、「カラーライン」が破られた時、ペイジは40歳に達していました。

翌1948年にシーズン途中でペイジはクリーブランド・インディアンスに入団。

6勝(1敗、防御率2.48)で42歳にしてリーグ優勝に貢献しています。
(1敗はエラーによる失点)

大リーグでの通算成績は6年間(1948・1949・1951・1952・1953・1965)で28勝31敗、防御率3.29ですが、1952年には46歳で12勝(10敗)を挙げ、1952年・1953年にオールスター戦に出場しています。
→1948・1949 クリーブランド・インディアンス 1951・1952・1953 セントルイス・ブラウンズ 1965 カンザスシティ・アスレチックス

1965年に、カンザスシティ・アスレチックスと1試合だけの契約を結び、大リーグ最後の登板(公式戦)を果たしました。
(先発して3回を無失点、勝敗つかず)この時、ペイジは59歳とされています。

しかし生年には異説もあり、実際には60歳を超えていたとの説もあります。

いずれにしてもとんでもない年齢での登板ですね。

その後、アトランタ・ブレーブス入団、エキシビジョンではありますが、2イニングを投げました。

▼その後
1971年、二グロリーグ特別委員会選出により、アメリカ野球殿堂入り。

ただし、大リーグでの経験10年という基準を満たしていないため特別枠。

1981年、10年を経て正規の資格者として「黒人として」ではなく、「二グロリーグから初の」アメリカ野球殿堂入り。

個人的に思うのですが、「史上最高の投手」ともいわれるサチェル・ペイジが永久欠番(もしくは永久欠番扱い)になっていないのはおかしいと思います。

1982年6月8日に死去。75歳。


(参照)
ボブ・フェラー

右投右打
身長183センチ、体重84キロ
1918年11月3日−2010年12月15日
投手
アメリカ・アイオワ州ヴァンメーター出身・・・
ボブ・フェラーことロバート・ウィリアム・アンドリュー・フェラーは、1918年11月3日に生まれます・・・
17歳でインディアンズと契約・・・
第二次世界大戦の兵役のほぼ4シーズンの中断を挟み、活躍しました・・・
日本では「火の球投手」ともいわれた速球投手・・・
1936年8月に17歳で大リーグデビュー・・・
同年9月13日には1試合17奪三振・・・
1938年に17勝を挙げ、240奪三振で奪三振王・・・
この年1938年から1941年まで4年連続奪三振王(240奪三振・246奪三振・261奪三振・260奪三振)・・・
1939年・1940年は最多勝(24勝・27勝)・・・
1940年は防御率2.61で最優秀防御率・・・最優秀防御率・最多勝・奪三振王のいわゆる「投手3冠」・・・・
同年の開幕戦でノーヒットノーラン・・・
1942年から1945年途中(ほぼ全シーズン)まで兵役・・・
もし、兵役のブランクがなければ、フェラーは350勝・3000奪三振を記録していただろうともわれています・・・
1945年途中に大リーグ復帰・・・
1946年に2回目のノーヒットノーラン・・・
1946年から1948年まで3年連続奪三振王(348奪三振・196奪三振・164奪三振)・・・
1946年・1947年と2年連続最多勝(26勝・20勝)・・・
1948年に19勝で奪三振王でワールドシリーズ制覇に貢献・・・
1951年に最多勝(22勝)・・・
同年にノーヒットゲーム(1失点)・・・
1954年には13勝3敗でチームのワールドシリーズ進出に貢献・・・
1956年に現役引退・・・
1957年にインディアンズの背番号「19」が永久欠番に・・・
1962年にアメリカ野球殿堂入り・・・

フェラーには、以下のエピソードがあります・・・
フェラーの速球は時速170キロをはるかに超えていたとも・・・
(実際にある球速計測では時速170キロをはるかに超えていた・・・)
本人も速球の速さには自信があったようだが、そんなフェラーがサチェル・ペイジの速球を「サチェル(・ペイジ)の投げるボールがファストボール(速球)なら、俺の投げるボールはチェンジアップだよ」とも語ったといわれる・・・

投手成績
通算18年、266勝162敗21セーブ、3827回、2581奪三振、防御率3.25

最優秀防御率1回(1940年)
最多勝6回(1939年−1941年、1946年・1947年・1951年)
奪三振王7回(1938年−1941年、1946年−1948年)

投手3冠1回(1940年)

アメリカ野球殿堂入り((1962年)
ノーヒットゲーム3回
(ノーヒットノーラン 1940年4月16日・1946年4月30日)
(ノーヒットゲーム 1951年6月1日)
※1951年6月1日はノーヒットゲームで1失点)


(参照)
ノーラン・ライアン

右投右打
身長188センチ、体重88.5キロ
1947年1月31日−
投手
アメリカ・テキサス州レフォージオ出身・・・
ノーラン・ライアンことリン・ノーラン・ライアン・ジュニアは大リーグを代表する奪三振王の一人です・・・
1965年に、ニューヨーク・メッツ入団・・・
1966年に大リーグ昇格・・・
1969年、ワールドシリーズ制覇・・・
1972年にカリフォルニア・エンゼルス移籍・・・
同年に329奪三振で奪三振王・・・
1973年にシーズン383奪三振の大リーグ記録で奪三振王・・・
(これまでは1965年のサンディー・コーファックス(参照)のシーズン382奪三振が大リーグ記録・・・)
同年5月15日に1回目のノーヒットノーラン・・・
同年7月15日に2回目のノーヒットノーラン(17奪三振)・・・
1974年に367奪三振で奪三振王・・・
同年8月12日に大リーグタイ記録(当時)の19奪三振・・・
同年8月20日に球速測定で時速100.9マイル(約時速162.4キロ)のギネス記録・・・
同年9月28日に3回目のノーヒットノーラン(15奪三振)・・・
1975年6月1日に4回目のノーヒットノーランでサンディー・コーファックスの大リーグ記録と並ぶ・・・
1976年に327奪三振で奪三振王・・・
1977年に341奪三振で奪三振王・・・
1978年に260奪三振で奪三振王・・・
1979年に223奪三振で奪三振王・・・
1980年にヒューストン・アストロズ移籍・・・
1981年は防御率1.69で最優秀防御率・・・
同年9月26日に大リーグ記録の5回目のノーヒットノーラン・・・
1983年にウォルター・ジョンソン(参照)の通算3508奪三振の大リーグ記録を更新・・・
1987年に2.76、防御率270奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・
1988年に228奪三振で奪三振王・・・
1989年にテキサス・レンジャーズ移籍・・・
1989年は301奪三振で奪三振王・・・
1990年は232奪三振で奪三振王・・・
同年6月11日に6回目のノーヒットノーラン・・・
1991年5月1日に7回目のノーヒットノーラン(16奪三振)・・・
1992年にエンゼルス時代の背番号「30」が永久欠番に・・・
1993年に現役引退・・・46歳にして球速は時速98マイル(約時速157.7キロ)・・・
1996年にアストロズとレンジャーズでの背番号「34」が永久欠番・・・
1999年にアメリカ野球殿堂入り・・・
アストロズやレンジャーズに関わり、現在はアストロズのエグゼクティブ・アドバイザー・・・
ノーラン・ライアンはアストロズ時代にロジャー・クレメンス(参照)、シアトル・マリナーズ時代のランディ・ジョンソン(参照)と関わっています・・・

投手成績
通算27年、324勝292敗3セーブ、5386回、5714奪三振、防御率3.19

最優秀防御率2回(1981年・1987年)
奪三振王11回(1972年−1974年、1976年−1979年、1987年−1990年)

アメリカ野球殿堂入り((1999年)
ノーヒットノーラン7回(1973年5月15日・1973年7月15日・1974年9月28日・1975年6月1日・1981年9月26日・1990年6月11日・1991年5月1日)
シーズン奪三振 383(1973年)
通算奪三振 5714
通算与四球 2795
通算暴投 277


(注)赤太字は大リーグ記録

(参照)
ジャッキー・ロビンソン
右投右打
身長180センチ、体重92.5キロ
1919年1月31日−1972年10月24日
二塁手、一塁手
ジョージア州カイロ出身
大リーグの有力人種排除の歴史の中で初めて、大リーグでデビューし活躍し、有色人種の大リーグ参加の道を切り開きました・・・
ジャッキー・ロビンソンンの背番号「42」は彼の前述の功績により全球団共通の永久欠番・・・・
1919年1月31日に生まれたロビンソンは第二次世界大戦で兵役に就き、1944年11月に名誉除隊・・・
1945年に二グロリーグのカンザスシティ・モナークに入団し、ボストン・レッドソックスのトライアウトに参加したが、契約に至らず・・・
ロビンソンはチーム最高の打率3割4分5厘を挙げる・・・
(資料によっては打率3割8分7厘・・・)
1945年にブルッリン・ドジャースに誘われる・・・
1945年8月23日にドジャース傘下のAAA級・モントリオール・ロイヤルズに入団・・・
当時は遊撃手だったが一塁手へコンバート・・・
1946年2月に結婚・・・(同年に長男、1950年に長女、1952年に次男が誕生・・・)
1946年にロビンソンは打率3割4分9厘・113打点でリーグトップ、打率は球団記録でロイヤルズのリーグ優勝に貢献・・・
1947年4月10日にロビンソンは大リーグに昇格・・・
1947年のロビンソンは打率2割9分7厘・12本塁打・48打点・29盗塁で盗塁王、新人王・・・
1948年も打率2割9分6厘・12本塁打・85打点・22盗塁の成績・・・
1949年は打率3割4分2厘・16本塁打・124打点・37盗塁で首位打者、盗塁王、MVP・・・
その後は打撃タイトルは無冠だったが、打率3割・10本塁打・80打点を1953年までキープ・・・
打率3割・10本塁打は1954年までキープ・・・
1955年に打率2割5分6厘・8本塁打・36打点・・・
同年はワールドシリーズ優勝メンバー・・・
1956年に打率2割7分5厘・10本塁打・43打点で同年で現役引退・・・
引退後は糖尿病などに苦しむ・・・
1962年にアメリカ野球殿堂入り・・・
1972年6月に背番号「42」がドジャースの永久欠番・・・
1972年10月24日に交通事故で死去・・・
1999年に背番号「42」は全球団共通の永久欠番に・・・
(ただし、それ以前から「42」を着けていた選手は特例で継続使用・・・)

打撃成績
通算10年、1382試合、4877打数1518安打、137本塁打、734打点、終身打率3割1分1厘(197盗塁)

首位打者1回(1949年)
盗塁王2回(1947年・1949年)

MVP1回(1949年)
新人王(1947年)

アメリカ野球殿堂入り(1962年)

(参照)
サンディー・コーファックス

左投左打
身長188センチ、体重95.5キロ
1935年12月30日−
投手
アメリカ・ニューヨーク州ブルックリン出身・・・
サンディー・コーファックスことサンフォード・ブラウン・コーファックスは、出生時の名はサンフォード・ブラウンだったが、両親が離婚し、母がアール・コーファックスと再婚したため、コーファックスの姓を名乗るようになります・・・
1954年12月にブルックリン・ドジャースと契約・・・
1955年に大リーグに昇格・・・
最初は球速はあるが、コントロール難の投手だった・・・
1961年に269奪三振で奪三振王・・・
1962年に防御率2.54で最優秀防御率・・・
同年6月30日に1回目のノーヒットノーラン・・・
1963年に25勝で防御率1.88、306奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
同年5月11日に2回目のノーヒットノーラン・・・
同年シーズンMVP・・・
同年にワールドシリーズ制覇・・・ワールドシリーズMVP・・・
1964年に19勝で防御率1.74で最優秀防御率・・・
同年6月4日に3回目のノーヒットノーラン・・・
1965年に26勝で防御率2.04、382奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
シーズン382奪三振は当時の大リーグ記録・・・
同年9月9日に4回目のノーヒットノーランで今回は完全試合・・・
同年ワールドシリーズ制覇・・・ワールドシリーズMVP・・・
1966年は27勝で防御率1.73、317奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
同年にリーグ優勝するもワールドシリーズ敗退・・・
同年で現役引退・・・
引退の理由は登板過多による左肘の故障・・・
※所属はブリックリン・ドジャースから1958年にロサンゼルス・ドジャースに球団名変更・・・
1972年にアメリカ野球殿堂入り・・・同年に背番号「32」がドジャースで永久欠番・・・
現役引退後はドジャースに関わっています・・・

投手成績
通算12年、165勝87敗9セーブ、2324回1/3、2396奪三振、防御率2.76

最優秀防御率
5年連続含む5回(1962年−1966年)
最多勝3回(1963年・1965年・1966年)
奪三振王4回(1961年・1963年・1965年・1966年)

投手3冠3回
(1963年・1965年・1966年、タイ)

MVP1回(1963年)
サイ・ヤング賞3回(1963年・1965年・1966年

ワールドシリーズMVP2回(1963年・1965年、タイ)

アメリカ野球殿堂入り(1972年)
ノーヒットノーラン4回(完全試合1回を含む)
(完全試合 1965年9月9日)
(ノーヒットノーラン 1962年6月30日・1963年5月11日・1964年6月4日)

(注)赤太字は大リーグ記録


(参照)
ウォルター・ジョンソン

右投右打
身長185.5センチ、体重91キロ
1887年11月7日−1946年12月10日
投手
アメリカ・カンサス州出身・・・
1907年にワシントン・セネタースと契約し、1年目は5勝9敗ながら防御率1.88・・・
1910年に25勝(17敗)で313奪三振で奪三振王・・・・・・
1911年は25勝、1912年は33勝で防御率1.39と303奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・
1913年は36勝で防御逸1.14と243奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
1914年は28勝で225奪三振で最多勝と奪三振王・・・
1915年は27勝で203奪三振で最多勝と奪三振王・・・
1916年は25勝で228奪三振で最多勝と奪三振王・・・
1917年は23勝で188奪三振で奪三振王・・・
1918年は23勝で防御率1.27と162奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
1919年は20勝で防御率1.49と147奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・
1921年は143奪三振で奪三振王・・・
1923年は130奪三振で奪三振王・・・
1924年は23勝で防御率2.72、158奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
1925年も20勝しましたが無冠・・・
1924年・1925年はセネタースのリーグ2連覇に貢献・・・
1926年・1927年は15勝・5勝で1927年に現役引退・・・
1936年、アメリカ殿堂入り(設立され最初に殿堂入りした5人のうちの1人)
現役引退後は、セネタースで4年・クリーブランド・インディアンズで3年監督・・・

投手成績
通算21年、417勝279敗、5914回1/3、3508奪三振、防御率2.17

打撃成績
933試合、2324打数547安打、24本塁打、255打点、終身打率2割3分5厘

監督成績
通算7年、2位1回

最優秀防御率5回(1912年・1913年・1918年・1919年・1924年)
最多勝6回(1913年−1916年、1918年・1924年)

奪三振王12回(1910年、1912年−1919年・1921年・1923年・1924年)

投手3冠3回(1913年・1918年・1924年、タイ)


アメリカンリーグ最優秀選手(MVP)2回(1913年・1924年)

アメリカ野球殿堂入り(1936年)
通算完封110

(注)赤太字は大リーグ記録

(参照)
ロジャー・クレメンス

右投右打
身長193センチ、体重106.5キロ
1962年8月4日−
投手
アメリカ・オハイオ州デイトン出身・・・
ロジャー・クレメンスことウィリアム・ロジャー・クレメンスは大リーグを代表する投手の一人です・・・
1983年にボストン・レッドソックス入団・・・
1984年に大リーグ昇格・・・この年は9勝6敗・・・
1986年は24勝で防御率2.48で最優秀防御率と最多勝・・・
同年はリーグ制覇・・・アメリカンリーグMVPとサイ・ヤング賞・・・
4月29日に9回20奪三振・・・
1987年は20勝9敗で最多勝と2回目のサイ・ヤング賞・・・
1988年は18勝で291奪三振で奪三振王・・・
1990年は21勝で防御率1.93で最優秀防御率・・・
1991年は18勝で防御率2.62、241奪三振で3回目のサイ・ヤング賞・・・
1992年が18勝で防御率2.41で最優秀防御率・・・
1996年が257奪三振で奪三振王・・・
1997年にトロント・ブルージェイズ移籍・・・
1997年に21勝で防御率2.05、292奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・4回目のサイ・ヤング賞・・・
1998年に20勝で防御率2.65、271奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・5回目のサイ・ヤング賞・・・
1999年にニューヨーク・ヤンキース移籍・・・
2001年に20勝3敗で6回目のサイ・ヤング賞・・・
2004年にヒューストン・アストロズ移籍・・・同年18勝4敗で7回目のサイ・ヤング賞・・
2005年に防御率1.87で最優秀防御率・・・
2007年にニューヨーク・ヤンキース復帰・・・
同年に事実上現役引退・・・
薬物疑惑と不倫疑惑があり、引退をめぐる騒動も・・・

投手成績
通算24年、354勝184敗、4916回2/3、4672奪三振、防御率3.12

最優秀防御率7回(1986年・1990年・1991年・1992年・1997年・1998年・2006年)
最多勝4回(1986年・1987年・1997年・1998年)
奪三振王5回(1988年・1991年、1996年−1998年)

投手3冠2回(1997年・1998年)

アメリカン・リーグMVP1回(1986年)
サイ・ヤング賞7回(アメリカン6回)(ナショナル1回) (1987年・1991年・1997年・1998年・2001年)(2004年)
1試合20奪三振2回(1996年4月29日・1996年9月18日)

(参照)
ランディ・ジョンソン

左投左打
身長208センチ、体重102キロ
1963年9月10日−
投手
アメリカ・カリフォルニア州ウォールナットクリーク出身・・・
1985年にモントリオール・エクスポズへ入団・・・
ランディ・ジョンソンことランドール・デヴィッド・ジョンソンは大リーグを代表する奪三振王の一人です・・・
1998年に大リーグ昇格・・・
1989年シーズン途中でシアトル・マリナーズへ移籍・・・
1990年6月2日にノーヒットノーラン・・・
1992年に241奪三振で奪三振王・・・
同年にメンタル・トレーニングで制球難改善へ・・・
1993年に19勝で308奪三振で奪三振王・・・
1994年に204奪三振で奪三振王・・・
1995年に18勝2敗、防御率2.48、294奪三振で最優秀防御率、奪三振王・・・
1998年シーズン途中でヒューストン・アストロズ移籍・・・
1999年にアリゾナ・ダイヤモンドバックス移籍・・・
1999年に364奪三振で奪三振王・・・
2000年に19勝で347奪三振で奪三振王・・・
2001年に21勝で防御率2.49、372奪三振で最優秀防御率、奪三振王・・・
奪三振率の大リーグ記録13.41・・・
(それまでは1999年にペドロ・マルティネス(参照)が記録した13.2)
同年ワールドシリーズ制覇・・・ワールドシリーズMVP・・・
2002年に24勝で防御率2.32、334奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
2004年に290奪三振で奪三振王・・・
同年5月18日に2回目のノーヒットノーラン・・・しかも完全試合・・・
2005年ンユーヨーク・ヤンキースに移籍・・・
2007年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに復帰・・・
2009年にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍・・・
2010年1月に現役引退・・・
現役引退後はフォトグラファー転進・・・
2015年にアメリカ野球殿堂入り・・・
同年にダイヤモンドバックスは背番号「51」を永久欠番に・・・

投手成績
通算22年、303勝166敗2セーブ、4135回1/3、4875奪三振、防御率3.29

最優秀防御率4回(1995年・1999年・2001年・2002年)
最多勝1回(2002年)
奪三振王9回(1992年−1995年、1999年−2002年、2004年)

投手3冠1回(2002年)

サイ・ヤング賞
4年連続、タイ
含む5回(1995年・1990年−2002年)
ワールドシリーズMVP(2001年)

アメリカ野球殿堂入り((2015年)
ノーヒットノーラン2回(完全試合1回を含む)
(完全試合 2004年5月18日)
(ノーヒットノーラン 1990年6月2日)


シーズン奪三振率13.41(2001年)
通算奪三振率10.61(投球回数2000回以上)


(注)赤太字は大リーグ記録

(参照)
ペドロ・マルティネス

右投右打
身長180センチ、体重88.5キロ
1971年10月25日−
投手
ドミニカ共和国出身・・・
1986年6月にロサンゼルスドジャースと契約し、1992年9月に大リーグ昇格・・・
1993年に65試合登板で10勝5敗2セーブ・・・
1994年にワシントン・ナショナルズ移籍・・・
1997年に防御率1.90で最優秀防御率・・・
1998年にボストン・レッドソックス移籍・・・
1999年に23勝で防御率2.07、313奪三振、当時のシーズン奪三振率13.2で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・
2000年に18勝で防御率1.74、284奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・
2002年に20勝で防御率2.26、239奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・
2003年に防御率2.22で最優秀防御率・・・
2005年にニューヨーク・メッツ移籍・・・
2009年にフィラディルフィア・フィリーズ移籍・・・
同年に現役引退・・・
現役引退後はレッドソックスに関わる・・・
2015年、アメリカ野球殿堂入り・・・

投手成績
通算18年、219勝100敗3セーブ、2827回1/3、3154奪三振、防御率2.93

最優秀防御率5回(1997年・1999年・2000年・2002年・2003年)
最多勝1回(1999年)
奪三振王3回(1999年・2000年・2002年)

投手3冠1回(1999年)

最優秀選手(MVP)1回(1999年)
サイ・ヤング賞3回(1997年・1999年・2000年)
オールスターMVP1回(1999年)

アメリカ野球殿堂入り((2015年)


■サチェル・ペイジの名言
・平凡に生まれついたとしても、凡人でいなきゃならないって法はないんだ

・振り返るな。追いつかれる。(何かがあなたに追いついてくるかも知れない)

・もしも自分の年齢を知らなかったら、今の自分を何歳だと思うかね?


※上から、非凡であったゆえの言葉であり・自分の力で未来を切り開いたゆえの言葉、トップ・ランナー(アスリート)であるゆえの言葉、42歳という年(高)齢で大リーグデビューしたゆえの言葉

■主な出来事

1933年、ピッツバーグ・クロフォーズ所属。
42試合31勝4敗。
21連勝。

1934年、ノースダコダのビスマーク所属。
105戦104勝。
大リーグ選抜相手に延長13回1−0で勝利。
ワールドシリーズの優勝チームカージナルスとサチェルを主力とした黒人リーグ選抜の9試合でカージナルスに2勝しか許さず

1935年、40イニングで60奪三振でMVP。

他にも多くの逸話があります。

(詳細は、佐山和夫氏著「2000勝投手はこうして誕生した;サチェル・ペイジとその時代」「史上最高の投手はだれか(潮文庫)」などに掲載されています)


■大リーグにおける年度別投手成績
球団 登板 勝利 敗戦 S  勝率  被安打 与四死球 奪三振 失点 自責点 防御率
1948 CLE 21 .857 72・2 61 22・1 43 21 20 2.48
1949 CLE 31 .364 83 70 33・1 54 29 29 3.04
                             
1951 SLB 23 .429 62 67 29・1 48 39 33 4.79
1952 SLB 46 12 10 10 .545 138 116 57・3 91 51 47 3.07
1953 SLB 57 11 .250 117・1 114 39・1 51 51 46 3.07
                             
1965 KCA 0・0 0.00
  179 28 31 32 .475 476 429 180・7 288 191 174 3.29
(注)球団のCLEはクリーブランドインディアンス、SLBはセントルイス・ブラウンズ、KCAはカンザスシティ・アスレチックス
(注)Sはセーブ、Hはホールド
(注)回の72.2、117.1はそれぞれ72回2/3、117回1/3
(注)与四死球は、四球数・死球数

■投手

□特記事項
アメリカ野球殿堂入り(1971年)


■総評
サチェル・ペイジの輝かしい成績や伝説の数々は佐山和夫氏の著書「2000勝投手はこうして誕生した;サチェル・ペイジとその時代」「史上最高の投手はだれか(潮文庫)」に詳しく掲載されています。

また、サチェル・ペイジの自伝については同じ著者の「伝説の史上最速投手ーサチェル・ペイジ自伝(上)」「伝説の史上最速投手ーサチェル・ペイジ自伝(下)」をご覧ください

42歳にして大リーグデビュー・・・全盛期に大リーグ入りを見たかったですね。

もし、サチェル・ペイジの全盛期に「カラーライン」が破られていたら、サチェル・ペイジはとんどもない記録と成績をたたき出していた可能性があります。

私は、史上最高の投手はサチェル・ペイジだと思います。

(この記事は、「大リーグ史上最高の投手は?」に、加筆、一部修正したものです)



二グロリーグで2000勝以上したといわれるサチェル・ペイジ
2000勝投手はこうして誕生した;サチェル・ペイジとその時代ではサチェル・ペイジの偉業を追跡しています
数々の驚異的伝説は真実のようです

サチェル・ペイジは「史上最高の投手」といわれています
彼に関しては驚くべきエピソード、逸話がいくつもあります
サチェル・ペイジを知る「史上最高の投手はだれか(潮文庫)
サチェル・ペイジの凄さがわかります


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関連記事:
大リーグ史上最高の投手は?(本記事の元になった記事)

関連記事:いろいろなスポーツの主要記録(野球の項目を参照)



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