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南方熊楠
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■南方熊楠■博物学者・民俗学者■バイタリティあふれた奇才

南方熊楠を知るおすすめ作品

▼当時の日本人の枠をはみ出した精神力を持った奇人

南方熊楠(みなかた・くまぐす)は、博物学者であり、粘菌の研究を中心とした生物学者であり、「遠野物語」などの著作で知られる民俗研究の巨人・柳田国男とも交流のあった民俗学者でした。






特に、民俗学者・柳田国男との比較などは興味深かったですね

南方熊楠−地球志向の比較学」は、面白かったし、民俗学の南方熊楠にも触れています。

海外留学において夏目漱石(イギリス留学)、森鴎外(ドイツ留学)といった同時代の巨人が神経衰弱に悩まされた中で、南方熊楠はアメリカ留学では満足せずイギリスに渡り、大英博物館に通いつめ、神経衰弱とも無縁だったという当時の日本人の枠をはみ出した精神力を持つ巨人でした。

(南方熊楠の特に若い頃の写真を見ると眼光の輝きが異常に強い当時の日本人にはない「目力(めぢから)」を感じます)


ある意味で熊楠は日本人の可能性の極限の人だったかもしれません

■生涯
南方熊楠は、1867(慶応3)年5月18日に和歌山県で生まれ、1941(昭和16)年12月29日に和歌山県で亡くなりますが、その生涯において多くの独自の研究と奇抜な言動、行動でも知られた奇人でもありました。

南方熊楠らが「神社合祀」により神社の木々が伐採されることにより生態系が破壊されることを憂いた「神社合祀反対運動」は現在のエコロジー、自然保護にもつながる先駆けだったといえるかもしれません。


▼驚異的な記憶力を持つ神童

南方熊楠は幼少期より驚異的な記憶力を持つ神童として知られていました。

熊楠は小学校時代に友人宅にある「和漢三才図会」という105巻もある膨大な百科事典を読んでは記憶し、自宅で図も含め書き写したといわれます。

「和漢三才図会」からはじめた写本は「本草網目」を同様に記憶し、帰宅後書き写し、さらに「大和本草」、「日本紀」など次々と同様に記憶し、帰宅後書き写し、写本の山を築いたといわれます。

その抜群の記憶力は後に英語、ドイツ語、フランス語など19もの言語を操る力となったのかもしれません。

▼上京から海外留学

1883(明治16)年、旧制和歌山中学を卒業した熊楠は上京し、共立学校(現在の開成高校)に入学し、英語を学びます。
(共立学校は大学予備門に入学するための英語の受験予備校だったそうです)

この頃、イギリスの植物学者・バークレイの集めた菌類の6000点を超える7000点の収集を決意したといわれます。

1884(明治17)年、大学予備門(現在の東京大学)に入学した熊楠は、学業そっちのけで菌類収集、遺跡発掘に明け暮れたといわれます。

1886(明治19)年、落第のために大学予備門を中退した熊楠は、和歌山県に戻り、その年の暮れにアメリカに渡ります。

アメリカで大学に通いながら植物採集などをしたり、学者に師事したり、住み込みで働きながら各地を転々とし独自の動植物の研究を続けます。

大学に通ってた時期の1888(明治21)年には寄宿舎で校則違反の飲酒で自主退学になっています。

校則違反はいけないのでしょうが、ある意味バイタリティありますね・・・

住み込みで働いていた1891(明治24)には新発見の緑藻を科学誌「ネイチャー」に発表します。

その年の9月にはキューバに渡り石灰岩生地衣を発見、サーカス団に入り南米旅行をしています。


1892(明治25)年1月にアメリカに戻り、9月にはイギリスに渡っています。

1893(明治26)年、科学誌「ネイチャー」に初の論文「東洋の星座」を寄稿、この頃から大英博物館に通いつめるようになり、翌1894(明治27)年には大英博物館で職を得ます。

1897年(明治30)年にはロンドンに亡命中の孫文と知り合い親交を深めますが、1898(明治31)年に大英博物館で暴力事件を起こし、1900(明治33)年には大英博物館を出入り禁止となり、日本に帰国します。

熊楠はどうも血の気の多い人だったみたいですね。


▼帰国後の熊楠

帰国後、大阪を経て和歌山県に帰った熊楠はこの地を生涯のフィールドとすることになります。

1901(明治34)年に和歌山県に訪れた孫文と旧交をあたため、1906(明治39)年に結婚をします。

1907(明治40)年には前年末に発布された「神社合祀令」に対し反対運動を起こします。

1910(明治43)年には紀伊教育会主催の講演会場に押し入り、監獄行きしますが、ここで新種の粘菌を発見したといわれます。

「転んでもただでは起きない」といったところでしょうか・・・すごいですね。

1911(明治44)年より民俗学者・柳田國男との文通が始まり、1913(大正2)年には柳田國男と面会しています。

その後も新しい粘菌の発見など独自の研究は続き、1921(大正10)年には粘菌新属に
「ミナカテルラ・ロンギフィラ(長糸南方粘菌)」と熊楠の苗字(南方)にちなんだ名前がつけられます。

1929(昭和4)年には昭和天皇に田辺湾の戦艦長門艦上で講義をしています。

1941(昭和16)年12月29日、自宅にて死去。

猫楠ー南方熊楠の生涯(角川文庫ソフィア)」は、妖怪漫画の第一人者・水木しげる氏が猫楠という猫を通して博覧強記の大天才、知の巨人・南方熊楠に迫った意欲作品

手法は、夏目漱石の「我輩は猫である」に近いかも

水木しげる氏が描いたユニークな熊楠の伝記


▼エピソード
熊楠は奇人としても知られエピソードもかなりあります。

主なものを挙げてみます。


熊楠はふんどしだけの裸(あるいは薄着)で過ごすことが多かったといわれます。

ふんどしだけの裸で山を駆け回っていた熊楠を地元の人は「てんぎゃん(天狗)」と呼んでいたといわれます。


生涯定職に就かなかったために、当然ながら収入が少なかったといわれます。

自由人ともいえますが苦労もあったでしょうね。


自在にヘドを吐くことが出来たそうで、小学校時代には喧嘩になると吐いたといわれます。


「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」との言葉を残す一方、蔵書は大切に保存していたといわれます。


1929(昭和4)年に昭和天皇に講義した際に熊楠は粘菌の標本をキャラメルの箱に入れて献上したといわれます。

このエピソードは熊楠の素朴な人柄を示しています。



▼独自の研究をした在野の学者

熊楠は生涯を在野の学者で通しました。

世界的な粘菌の研究、幅広い博物学に対する取り組み、自然に対する畏敬から発生したと思われる民俗学への情熱と独自の研究は在野の自由な立場だから出来た部分もあったと思います。

逆に在野ゆえの限界もあったかもしれませんが、彼の常人では考えられないほどのバイタリティが多くの研究成果に結びついたのだと思います。


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