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梅ヶ谷藤太郎(初代)
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■史上最強力士RANKING−INDEX■■■■■

雷電為右エ門 谷風梶之助 太刀山峰右エ門 栃木山守也 梅ヶ谷藤太郎(初代)
双葉山定次 大鵬幸喜 常陸山谷右エ門 稲妻雷五郎 陣幕久五郎
小野川喜三郎 北の湖敏満 千代の富士貢 大錦卯一郎 玉錦三右エ門
貴乃花光司 羽黒山政司 鬼面山谷五郎 栃錦清隆 若乃花幹士(初代)
 
 
梅ヶ谷藤太郎(初代)■明治の大横綱 (RANKING 5位)

梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう)
本名・小江 藤太郎〜出身地・福岡県〜身長176cm、体重105kg
生没年月日・弘化2(1845)年2月9日−昭和3(1928)年6月15日
最高位・大関(横綱免許)
■コメント
梅ヶ谷藤太郎(初代)は、明治期の大横綱で、引退後も国技館建設に尽力しました。
史上2位幕内勝率9割5分1厘史上3位58連勝を記録しています。

▼履歴
梅ヶ谷には、赤ん坊の頃から石臼を引き摺り、乳や菓子よりも酒を欲しがり酒で育てられたというにわかには信じ難い伝説が伝わります。

7歳の時に大坂相撲の不取川清助に引き取られ、梅ヶ枝を名乗り相撲を取り、16歳の頃には「筑前無敵」といわれます。

文久2(1862)年、17歳の頃に不取川を通じて大坂相撲の湊部屋に入門し、梅ヶ谷を名乗ります。

大坂大関となった後、明治3(1870)年暮れに東京相撲に加入、玉垣部屋に所属します。
明治4(1871)年5月に東京デビュー、しかし大坂大関だったにもかかわらず、番付は本中(序の口より下、現在では前相撲に当たる)に据えられてしまいます。
さすがにこの地位では敵は無く、順調に出世します。

明治7(1874)年12月に新入幕でいきなり8勝1分1休で優勝相当の成績を挙げます。
明治9(1876)年4月初日から明治14(1881)年1月8日目まで史上3位となる58連勝を記録、1敗を挟んで、翌場所の同年5月初日から明治17(1884)年5月6日目まで35連勝を記録しています。

明治17(1884)年2月に横綱免許を授与されています。

明治17(1884)年3月の天覧相撲では、明治天皇のリクエストで平幕の大達羽左エ門との対戦が組まれ、水入りの大相撲の末に引き分け、明治天皇も大喜びであったと伝わります。

引退後に雷を名乗り、明治37(1904)年の
国技館(当時の呼称は大相撲常設館)建設に際し、安田銀行本所支店長の飯島保篤から信用だけで40万円(現在なら100億円相当)を無担保で借りることに成功しています。
協会はお礼として毎場所初日に飯島家に赤飯を届けたそうです。
協会の最高職・取締を長く務め、大正4(1915)年6月に弟子の梅ヶ谷藤太郎(2代)が引退すると雷部屋と年寄名跡を譲り、廃業します。
しかしその後も相談役待遇として協会に影響力を残し、「大雷」と尊称されました。

昭和3(1928)年6月15日没、享年83で、弟子の梅ヶ谷藤太郎が没した昭和2(1927)年9月2日よりも後でした。
83歳は横綱の長寿記録であり、現在も破られていません。

▼「負けない相撲」の具現者
梅ヶ谷は、谷風梶之助とともに「負けない相撲」の具現者だと思います。
4斗樽を片手で差し上げるほどの怪力ながら右上手を浅く引き、左は筈かのぞかせて寄るという堅実な取り口で、無理の無い合理的な相撲はまさに「負けない相撲」だったと思います。

この点は同じ怪力を謳われながら、堅実な相撲だった谷風梶之助を思わせます。

しかも寝ている間も二の腕を脇から離さず、彼の下駄は親指に力を込めるために親指の位置が窪んでいたといわれます。

赤ん坊の頃から酒で育ったという伝説があるように1斗(18リットル)以上はいける酒豪だったようです。

▼成績と記録

幕内通算成績 116勝6敗18分2預78休 勝率9割5分1厘 22場所で優勝相当9回

この成績を記録で分析してみます。

幕内勝率〜9割5分1厘〜史上2位
幕内勝率9割5分1厘は雷電為右エ門(9割6分2厘)に次ぐ史上2位で、横綱の最高勝率で谷風(9割4分9厘)を上回ります。

連勝〜58〜史上3位
58連勝は、双葉山定次(69)、谷風(63)に続く史上3位の連勝記録です。


▽梅ヶ谷に勝った力士
梅ヶ谷は幕内で6敗しかしていません。
梅ヶ谷に勝った力士を以下に列記します。
(対戦成績は梅ヶ谷から見ています)

勝ノ浦与市右エ門
(明治8年4月6日目〜東前頭3枚目)
(明治9年1月7日目〜東前頭4枚目)
最高位・前頭1枚目
(前頭筆頭はあえて1枚目で表記しています)
平幕時代の梅ヶ谷に連勝しています
対戦成績 6勝2敗2分
○○●●○分○○分○

雷電震右エ門(阿武松和助)
(明治9年1月4日目〜東関脇)
最高位・大関
対戦成績 2勝2敗4分
●分分●分○○分
最初の2戦は梅ヶ谷が幕下にいる時に幕内の雷電と対戦したものです
したがって初戦の敗戦は梅ヶ谷の幕内での敗戦に含まれていません
詳細は後述の▼ライバルを参照

若嶋久三郎(楯山久三郎)
(明治14年1月9日目〜東大関)
最高位・大関
梅ヶ谷の連勝を58でストップしています
対戦成績 11勝1敗1分
○○○○○○○○分○●○○

大達羽左エ門
(明治17年5月7日目)
最高位・大関
梅ヶ谷の連勝を35でストップしています
対戦成績 1勝1敗1分
○●分
詳細は後述の▼ライバルを参照

高見山宗五郎
(明治17年5月8日目〜西前頭2枚目)
最高位・関脇
対戦成績 5勝1敗1分1休
○分○○○休○●


▼ライバル
梅ヶ谷藤太郎(初代)のライバルといえば、梅ヶ谷が平幕時代に無敵の強さを誇った
雷電震右エ門と梅ヶ谷の晩年に強豪といわれた大達羽左エ門です。
両者とも全盛期には
横綱クラスかそれ以上の強さを示した強豪です。
(対戦成績は梅ヶ谷から見ています)

雷電震右エ門(阿武松和助)
福岡県出身、177cm、125kg
幕内通算成績 23場所 96勝18敗15分5預96休 勝率8割4分2厘 優勝相当6回
最高位・大関
雷電震右エ門は全盛期には梅ヶ谷も圧倒する強さを誇りましたが、病気で急速に衰えました
病気が無ければ、大横綱の可能性もあった強豪です

雷電震右エ門についての更なる詳細は強豪力士内の雷電震右エ門を参照
対戦成績 2勝2敗4分
●分分●分○○分

最初の2戦は、梅ヶ谷がまだ幕下(現在の十両)にいる時に雷電と幕内で対戦したものです
梅ヶ谷が幕内入りしての対戦成績は2勝1敗3分

大達羽左エ門
福岡県出身、身長175cm、体重126kg
幕内通算成績 26場所 87勝40敗21分3預109休 勝率6割8分5厘 優勝相当4回
最高位・大関
怪力と傍若無人な振る舞いで知られた強豪です
大達羽左エ門についての更なる詳細は強豪力士内の大達羽左エ門を参照
対戦成績 1勝1敗1分
○●分

■幕内通算成績
場所 番付 成績 星取表 優勝 備考
明治7(1874)年12月 西前6 8勝1分1休 ○○○分○○○○○休 (1)  
明治8(1875)年4月 西前4 6勝1敗3休 休休○○○●○○○休    
明治9(1876)年1月 西前4 5勝2敗1分2休 ○○○●○○●分休休    
明治9(1876)年4月 西前2 3勝1分6休 ○○○分休休休休休休    
明治10(1877)年1月 西前1 8勝2休 ○○○○○休○○○休 (2)  
明治10(1877)年6月 西小結 7勝1分2休 ○○分休○○○○○休 (3)  
明治10(1877)年1月 西関脇 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (4)  
明治11(1878)年6月 西関脇 4勝1分1預4休 ○○分○休休休預○休    
明治12(1879)年1月 西大関 6勝3分1休 ○分○○○○分○分休    
明治12(1879)年6月 西大関 5勝1預4休 休休休○○○○○預休    
明治13(1880)年1月 西大関 4分6休 休休休休休分分分分休    
明治13(1880)年5月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (5)  
明治14(1881)年1月 西大関 7勝1敗1分1休 ○○○○分○○○●休 (6)  
明治14(1881)年5月 西大関 8勝2休 ○○○○○○休○○休 (7)  
明治15(1882)年1月 西大関 10休 休休休休休休休休休休    
明治15(1882)年6月 西大関 5勝1分4休 ○○○○○分休休休休 (8)  
明治16(1883)年1月 東大関 6勝4休 ○○○○○○休休休休    
明治16(1883)年5月 東大関 3勝7休 休休休休休○○休○休    
明治17(1884)年1月 東大関 7勝1分2休 ○○分○○○休○○休 (9)  
明治17(1884)年5月 東大関 7勝2敗1休 ○○○○○○●●○休   横綱
明治18(1885)年1月 東大関 3勝3分4休 ○○○分休休休分分休    
明治18(1881)年5月 東大関 10休 休休休休休休休休休休    
 幕内通算成績 22場所 116勝6敗18分2預78休 勝率9割5分1厘 優勝相当9回


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