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歴代横綱メモ(41代〜50代)
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■歴代横綱メモ(41代〜50代)■

初代〜10代+雷電為 11代〜20代 21代〜30代 31代〜40代 41代〜50代
51代〜60代 61代〜70代      

四股名(ふりがな)〜生没年月日〜出身地  注)生没年月日は西暦表示
当該横綱に関する簡単なメモ  注)横綱在位は横綱在位(推挙年齢-引退年齢)を示す
 
41代 千代の山 雅信(ちよのやま まさのぶ)〜1926年6月2日-1977年10月29日〜北海道
41代横綱、雲竜型
横綱在位・1951年9月-1959年9月(25-32)
本名・杉村 昌治
身長191cm、体重115kg
幕内通算成績 46場所 366勝149敗2分6預147休、勝率7割1分1厘、優勝6回
(横綱成績 32場所 239勝103敗1分137休、勝率6割9分9厘、優勝3回)
小学校の頃から怪童といわれ、出羽海部屋入門時には180センチを超す身長で新聞記事になるほどの評判だった。
周囲から「打倒・双葉山」を期待され、初土俵から順調に出世したが、双葉山の引退に間に合わず対決は実現しなかった。
しかし、新入幕でいきなり10戦全勝(優勝は成績は同じ10戦全勝ながら番付上位の羽黒山)の成績を挙げて驚異の新人ぶりを示した。
新大関から2場所連続優勝するも横綱昇進を見送られる。
その後3回目の優勝をすると横綱へ昇進、それまでの吉田司家ではなく相撲協会が推挙した初めての横綱となった。
長身(191センチ)からの突っ張りと右四つからの寄り、上手投げを得意とした。
一時横綱返上を申し出たこともあったようにプレッシャーに弱かったのか、混戦を苦手とし、優勝を何度か逸している。
精悍なマスクと細身ながら筋骨隆々な体格は、引退後に年寄・九重として晩年にスカウトした弟子である千代の富士がその面影を引き継いだ。
出羽海部屋の継承がならず、分家独立を基本的に認めない出羽一門から独立し破門となり、高砂一門に移り、九重部屋を興した。
42代 鏡里 喜代治(かがみさと きよじ)〜1923年4月30日-2004年2月29日〜青森県
42代横綱、雲竜型
横綱在位・1953年3月-1958年1月(29-34)
本名・奥山 喜代治
身長176cm、体重165kg
幕内通算成績 38場所 360勝163敗28休、勝率6割8分8厘、優勝4回
(横綱成績 21場所 199勝88敗28休、勝率6割9分3厘、優勝3回)
同郷の元大関の粂川にスカウトされて入門、その後粂川が弟子を双葉山道場(後に時津風部屋)に譲ったため移籍した。
左四つから太鼓腹を利しての寄り、上手投げを得意とした。
4回の優勝は全て14勝1敗で悲願だった全勝優勝はついにならなかった。
ライバル・吉葉山が昭和33(1958)年1月に3勝5敗で引退すると、5勝3敗の鏡里にも引退についての取材が殺到し、「10勝出来なければ引退する」といい、この場所9勝6敗だったために周囲は慰留したもののその言葉どおり引退した。
引退後は立田川を襲名、一時期は時津風を襲名したが、後継者争いでもめ、弟弟子・豊山に時津風を譲り、自身は立田川として独立して部屋を興した。
80歳で亡くなっているが、梅ヶ谷藤太郎(初代)、若乃花幹士(初代)に次ぐ長寿記録を持つ。
43代 吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ)〜1920年4月3日-1977年11月26日〜北海道
43代横綱、不知火型
横綱在位・1954月3月-1958年1月(33-37)
本名・池田 潤之輔
身長179cm、体重143kg
幕内通算成績 37場所 304勝151敗1分85休、勝率6割6分8厘、優勝1回
(横綱成績 17場所 109勝67敗79休、勝率6割1分9厘、優勝0回)
実家は幼少時には裕福な網元だったが、その後に倒産し、家計を助けるべく北海道製糖(現在の日本甜菜製糖)に就職した。。
しかし、学歴が無ければ出世は望めないと一念発起して上京・・・ここで力士志願者で消えた別の少年と間違えられて上野駅に出迎えに来た力士2人に連れられて高嶋部屋へ、事情を説明するも説得されて、そのまま入門することになる。
就職していた会社にちなみ北糖山として昭和13(1938)年5月にデビューするが、その年の9月に虫垂炎となり、その時に手術を執刀した吉葉庄作博士の恩に報いるべく吉葉山に改名する。
十両昇進直前に応召し、各地を転戦中に銃弾命中によるケガ(1発は貫通、1発は足首に残る)を負うも、戦後復員した。
戦死の噂が流れていたため、痩せこけた姿から幽霊騒動になったという。
復帰後は「胃袋」といわれるほどの食欲と人一倍の稽古で4年間の遅れを取り戻すべく努力した。
新三役(関脇)で優勝決定戦で照國に敗れるものの13勝2敗の成績を挙げ、翌場所も13勝2敗(優勝は15戦全勝の照國)で大関昇進、大関になってからも昭和28(1953)年5月は14勝1敗ながら優勝は平幕で15戦全勝だった時津海と優勝にはなかなか届かなかったが、昭和29(1954)年1月に15戦全勝で悲願の初優勝を挙げました。
初優勝の翌場所に横綱昇進、しかし銃弾命中によるケガの後遺症もあり、その後優勝することはなかった。
これから充実していく時期と戦争が重なり、戦争による4年間のブランクと戦後の後遺症が惜しまれた。
現役中に吉葉山道場を開設し、引退後は年寄・宮城野を襲名し、部屋を興す。
44代 栃錦 清隆(とちにしき きよたか)〜1925年2月20日-1990年1月10日〜東京都
44代横綱、雲竜型
横綱在位・1955年1月-1960年5月(29-35)
本名・大塚 清→中田 清
身長178cm、体重132kg
幕内通算成績 52場所 513勝203敗1分32休、勝率7割1分6厘、優勝10回
(横綱成績 28場所 292勝84敗32休、勝率7割7分7厘、優勝6回)
少年時代から運動神経抜群で、自身の力士への憧れや近所の八百屋からの後押しもあり春日野部屋に入門した。
新弟子検査をギリギリで合格し、下位で初切(しょっきり)をやっていた頃はあまり期待されてはいなかったが、「マムシ」とあだ名された食い下がるしぶとい相撲で番付を上がっていった。
平幕から三役にかけては軽量であったこともあるが、相撲の技は全て使ったといわれるほどの業師ぶりを発揮し、大関昇進直前までの5場所連続を含む9回の技能賞を獲得している。
昭和26(1951)年1月には初日から7連敗するも、翌日から8連勝して勝ち越している。
大関から横綱にかけて体重の増量とともに正攻法の相撲に変化していき晩年は相撲の基本といわれる押し相撲になっていた。
若乃花幹士(初代)とともに「栃若」時代を築いた。
昭和35(1960)年5月、前場所は14日目まで全勝で千秋楽の若乃花との全勝対決には敗れたものの、まだまだ余力はあると思われたが、師匠の春日野(栃木山)の引き際を見習ったのか、初日から2連敗するとあっさり引退した。
引退の前場所までの7場所の勝率は9割を超えていた。
引退後は年寄・春日野として多くの幕内力士を育てる一方で、後に理事長として「安定長期政権」を築き、新たな両国国技館建設や相撲茶屋の改革などを断行した。
詳細は史上最強力士RANKING内の栃錦清隆を参照
45代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)〜1928年3月16日-2010年9月1日〜青森県〜初代
45代横綱、雲竜型
横綱在位・1958年3月-1962年3月(29-34)
本名・花田 勝治
身長179cm、体重107kg
幕内通算成績 57場所 546勝235敗4分55休、勝率6割9分9厘、優勝10回
(横綱成績 26場所 254勝66敗1分54休、勝率7割9分4厘、優勝8回)
青森県のりんご農家に生まれるが、昭和29(1934)年の室戸台風で農園が全滅し、北海道へ移った。
二所ノ関一門の巡業の際に、飛び入り参加で力士に勝ったのがきっかけで二所ノ関部屋に入門した。
後にプロレス入りする兄弟子・力道山との猛稽古の際にあまりの厳しさに力道山の脛にかみつき部屋から脱走し隅田川に飛び込んだという逸話がある。(力道山のプロレスでの黒タイツは、この古傷を隠すためともいわれています)
入門後、順調に番付を上がっていき、3年足らずで十両昇進を果たすが、弟弟子たちとの昇進祝いの祝杯でお金が足りなくなり、当時の横綱・東富士に借金をしたことが問題となる。
除名になりかけるが、羽黒山の取り成しで免れた。
足腰が強く、110キロに満たない軽量ながら正攻法の相撲を取り、「異能力士」といわれた。
他のニックネームには「キツネ」があり、後に「オオカミ」、さらには「土俵の鬼」と変わった。
昭和28(1953)年、二所ノ関部屋から師匠の大ノ海が引退した際に、ともに独立し花籠部屋(独立直後は芝田山部屋)に移った。
小部屋ゆえの苦労もあったが、猛稽古で補い、さらに昇進していった。
昭和34(1959)年5月に全勝の栃錦を千秋楽の本割で下し、優勝決定戦も勝っての逆転優勝、昭和35(1960)年3月には栃錦との千秋楽全勝決戦を制し優勝など栃錦との名勝負も多い。
引退後は年寄・二子山として横綱・若乃花(2代)、隆の里や大関・貴ノ花を始め多くの幕内力士を育てる一方で春日野理事長の下では春日野を補佐し、春日野勇退後はその後を継ぎ理事長に就任し、立ち合いの正常化などの改革に尽力した。
詳細は史上最強力士RANKING内の若乃花幹士(初代)を参照
46代 朝潮 太郎(あさしお たろう)〜1929年11月13日-1988年10月23日〜鹿児島県
46代横綱、雲竜型
横綱在位・1959年5月-1962年1月(29-32)
本名・米川 文敏
身長189cm、体重145kg
幕内通算成績 52場所 431勝248敗86休、勝率6割3分5厘、優勝5回
(横綱成績 17場所 102勝58敗80休、勝率6割3分8厘、優勝1回)
長身(189センチ)で太い眉と毛深い体で男性的魅力にあふれた横綱だった。
同じ時代をリードした「栃若」が小兵だったので、大型の朝潮とは好対照をなした。
大阪の本場所に強く、5回の優勝のうち4回が大阪での優勝で「大阪太郎」といわれた。。
強い時と弱い時の差が激しく、強さが安定していなかったが、個性的な横綱として人気があった。
引退後は師匠の高砂(前田山)から部屋を継承し、先代から引き継いだ高見山、富士櫻、自分の代になってからは朝潮、小錦、水戸泉を育てた。
特に高見山を外国人初の優勝力士に、小錦を外国人初の大関に育て「相撲の国際化」に果たした役割は大きい。
47代 柏戸 剛(かしわど つよし)〜1938年11月29日-1996年12月8日〜山形県
47代横綱、雲竜型
横綱在位・1961年11月-1969年7月(22-30)
本名・富樫 剛
身長188cm、体重139kg
幕内通算成績 66場所 599勝240敗140休、勝率7割1分4厘、優勝5回
(横綱成績 47場所 407勝147敗140休、勝率7割3分5厘、優勝4回)
柏戸は本名を名乗っていた富樫の頃から将来を期待され、順調に出世した。
入幕4場所目の昭和34(1959)年3月に伝統の四股名である柏戸に改名、昭和35(1960)年1月に小結として新入幕で西前頭13枚目の大鵬の初日からの連勝記録を11でストップさせ名を上げた。
その後大鵬とは「柏鵬」時代を築くことになる。
「柏鵬」時代といっても柏戸の優勝回数5回に対し、大鵬32回とライバルに水を空けられたことは否めない。
しかし直接の対戦成績で柏戸は16勝21敗(最晩年の5連敗を除けばそれまで16勝16敗の五分)と拮抗しており、体が堅く、取りこぼしが多かったことが強さの割りに優勝回数を始め記録面で大鵬に差をつけられた要因とされる。
詳細は史上最強力士RANKING(RANKIG外の強豪力士)内の柏戸剛を参照
48代 大鵬 幸喜(たいほう こうき)〜1940年5月29日-2013年1月19日〜北海道
48代横綱、雲竜型
横綱在位・1961年11月-1971年5月(21-30)
本名・納谷 幸喜
身長187cm、体重153kg
幕内通算成績 69場所 746勝144敗136休、勝率8割3分8厘、優勝32回
(横綱成績 58場所 622勝103敗136休、勝率8割5分8厘、優勝29回)
大鵬は昭和31(1956)年9月に本名の納谷で初土俵を踏むと、昭和34(1959)年5月に十両に昇進し、大鵬に改名した。
昭和35(1960)年1月に入幕を果たすと初日から11連勝して周囲を驚かせた。
連勝を止めたのは後にライバルとなる柏戸だった。
優勝32回、全勝8回、6連覇すること2度、45連勝などの記録を樹立、入幕の年から引退の年まで優勝しなかった年は無く、長きに渡り角界に君臨した。
柔らかい巨体を利した「負けない相撲」を完成、臨機応変に対応する決まった得意の無い相撲の取り口は「型が無い」と批判もされたが、今日ではむしろ評価されている。
双葉山、北の湖、千代の富士と並ぶ昭和の大横綱である。
詳細は史上最強力士RANKING内の大鵬幸喜を参照
49代 栃ノ海 晃嘉(とちのうみ てるよし)〜1938年3月13日- 〜青森県
49代横綱、雲竜型
横綱在位・1964年3月-1966年11月(25-28)
本名・花田 茂廣
身長177cm、体重110kg
幕内通算成績 40場所 315勝181敗104休、勝率6割3分5厘、優勝3回
(横綱成績 17場所 102勝69敗84休、勝率5割9分6厘、優勝1回)
高校では2年まで野球部で活躍し、3年から相撲部、3年夏に高校を中退して春日野部屋に入門した。
昭和35(1960)年3月に新入幕、その時は幕内を2場所で陥落するが、同年9月に再入幕、以後は昭和36(1961)年7月に小結、翌場所の同年9月には関脇に昇進し、関脇5場所目の昭和37(1962)年5月に初優勝し、翌場所の同年7月に大関昇進する。
昭和38(1963)年11月に14勝1敗で2度目の優勝、翌場所の昭和39(1964)年1月に13勝2敗で横綱に推挙され、翌場所の同年3月に横綱候補といわれていた佐田の山や豊山に先んじて横綱に昇進した。
しかし横綱昇進直前場所は優勝同点でも優勝次点でもなく昇進を疑問視する声もある。
最初で最後のチャンスをとらえて横綱に昇進したが、昇進後はケガや病気もあり成績が伸び悩み28歳で若くして引退した。
50代 佐田の山 晋松(さどのやま しんまつ)〜1938年2月18日- 〜長崎県
50代横綱、雲竜型
横綱在位・1965年3月-1968年3月(26-30)
佐々田 晋松→市川 晋松
身長182cm、体重129kg
幕内通算成績 44場所 435勝164敗61休、勝率7割2分6厘、優勝6回
(横綱成績 19場所 188勝64敗33休、勝率7割4分6厘、優勝3回)
地元の英雄である元大関・五ツ嶋に憧れ、五ツ嶋が所属していた出羽海部屋が地元に巡業に来た際に入門した。
昭和36(1961)年1月新入幕で10勝(5敗)するも翌場所はケガで全休、入幕3場所目の同年5月は西前頭13枚目の下位を利して12勝3敗で初優勝、この優勝は後に下位でも成績が良ければ大関、横綱と対戦させるきっかけを作った。
昭和37(1962)年7月、優勝決定戦で大鵬を下し関脇で2度目の優勝、翌場所の同年9月に大関に昇進した。
昭和39(1964)年9月から3場所連続13勝2敗の好成績で、優勝争いでも次点、次点と来て3度目の優勝を果たし、昭和40(1965)年3月に横綱に昇進した。
佐田の山は「平幕優勝は大関、横綱にはなれない」といわれたジンクスを破ったことになる。
横綱昇進2場所目に4度目の優勝をするが、その後2年以上優勝が無く、昭和42(1967)年11月に久しぶりの優勝をすると翌場所の昭和43(1968)年1月も優勝し、連覇を達成する。
ところが翌場所の同年3月に(2勝)3敗するとあっさり引退してしまう。
優勝6回は回数としては柏戸(5回)より多いが、大鵬との合口が非常に悪く、対戦成績は5勝27敗(優勝決定戦は含まず)だった。
大鵬は佐田の山が優勝を重ねられなかった原因の1つであり、「壁」といえたかもしれない。
引退後は出羽海部屋を継承、二子山理事長が勇退すると理事長に就任した。
理事長就任期間に出羽海を弟子の鷲羽山に譲り、境川を襲名した。

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